昭和46年06月12日 朝の御理解
御理解 第27節
「昔から、あの人は正直者じゃ、神仏のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。」
こういう御理解を頂いて思わして貰うことは、成る程天地の親神様だなあと思います。親いうならば親神様であれば、こそ人が善いとか悪いとか、いわゆる神様の御子として、氏子として見ておられるから、成る程願えばおかげが受けられるのであり、縋ればおかげが受けられると言う事が分ります。よく申しますことですが、根性が悪いとか、意地が悪いとか、又は世の中で悪人のように言われる人でも、信心をしておかげを受けると言う事は確かに別ものだ。
あぁいう人がいかに神様の前に逆とんぼ打ったところで、神様は御利益をやんなさるもんかと言った様な事を申しますけど、そういう人でもです矢張り逆とんぼ打つようにして縋り願えばね、おかげを受けるという事実があります。願えばおかげを受ける、だからそこんところで分からせて頂くことは、成る程天地の親神様だなと思うですね。お前のような悪い奴にはおかげはやらんとは仰しゃらん。願えば矢張りおかげは下さる。
それとは反対にそれこそ世間では仏様のような人、神様のような人だと、本当によい人だといわれる人でも、やはり不幸が続くという人がある。どうしたことであろうかと、決してどうしたことじゃない、縋らにゃおかげは矢張りおかげはない。頼らんことには神も仏もないと昔からよく言うてあるが、その知らん訳じゃないけれどね、縋らん氏子は、言う事を聞かぬ子は親でも仕方あるまいがと仰しゃるように。
こちらを向いて縋ってこなければ仕方がない。不憫だけれども時節を待っておかげを受けたがよかろうと言うことになってくる。世の中には仲々律義な人、成る程正直な人、物事の几帳面な人、ああいう人が信心をしたら本当にお徳を受けるだろうと言うような人がです、世間には沢山ありますね。ところがそういう人程ね不思議に信心致しませんですね。自分はまっとうにやって行きよる。
昨日私は面白いお知らせ頂いたんですけれども、或る方のお取次させて頂いておりましたら、普通はあのビールですねお酒のビールです、ビールなんですけれどもビールルと頂くんです。ビールの下にルが一ちょあってから、ルルビールとルが一つ多いのです。それから私は感じなのですけど、その人は非常にその人間が何ですかルーズなんですよ。それから私は感じたんですけども、ビールといえばお酒のことですから、酒の一種ですから有り難い、勿体なき畏れ多きと仰しゃる。
そういう信心することに依って有り難いものは感じている、けれどもとにかく悪気じゃないけれども、人との約束を守らなかったり、嘘を言うたり平気なんですね。人から物を借りとっても、人のものじゃら、我がものじゃら分からんように、もうあの位のものじゃから催促は出来んようなものなんかは、もう結局返さんという訳じゃないらしいけれども、返すという律義さがない訳です。
もう本当に物でも借りたらチャット、その例えば風呂敷一枚借りても、傘一本借りてもキチッとして返さねばという律義な人があります、それ返さなかったらもうそれが何時までも引っ掛かってから困るような人があります。私共どっちかちゅうとそのタイプなんですね。どちらかと、どうとも言えんですけどもね、人のものを借りとったっちゃ気にかからんちゅう、だからそういう人でも有り難いというものを頂けるのです。
ルーズです、人間がルーズなんです。あの人は信心しよってからと、言う様な場合がありますけれども、やはり神様にお願いをする事に依って、おかげは受けておられる。ですからいうと信心させて貰うてる奴にろくな奴はおらんと、昔から信心のない人は言いますけど、あながち当たってない事じゃないです。信心しよってもルーズであったり、正直でなかったり、こすい気があったり、又はちょいと根性が悪かったり、まあ言うならば矢張りめぐりの深い、めぐりの深さを感じるですね。
先日お話しました北海道の乙犬という先生ですね、先生のお母さんの話を、吉木先生からよく話を聞かせて貰いましたが、始めて参ってきた時なんかは、まあどうして意地の悪い、根性の悪い顔じゃろうかと思うたと、また事実そうだったらしいですね。永年親との折り合いが悪く、本当の親でも折り合いが悪かったのですけれども、けど一たび信心になられたらですね、その根性が神様に向けられた訳です。そして潔う改まっていかれた。ですから、もうおかげではなくて、お徳を受けられた悪人正規といわれます。
も悪人の方が却って早く助かるという意味、う自分を悪人と見極めることが早いからじゃないでしょうかね。まあ今日の二十七節は、いろいろ深い意味もございましょうけれどもですね、信心しておかげを受けると言うことは確かに別ものであると言う事。そこから、これは私どもが感じることですけれども、成る程天地の親神様だなと言うこと。どんなに心が曲がっておろうが悪かろうが、意地が悪かろうがやはり自分の子供に意地の悪いのがおったり、根性の悪いのがおったり。
又この人はほんと「まんまんしゃん」のごとある男と、また女と言われる様なとでもです、信心をしなかったらおかげは受けられない。これは親でも仕方がない。こっちを向けと言うてもこっちを向かなかったら仕方がない。まあ世間でも言う様に、むしろああいう人達が信心したら徳を受けるだろうと言う様に几帳面で真面目で、忠実で、辛抱もんで、と言われるような人がやはり次々難儀な事がある。信心しておかげを受けることは別もんだと、だがそういう人が一たび信心する事に依っておかげを受ける。
又はそういう、世間では神様仏様のような人じゃなくて、反対にまあ何と悪い奴じゃろうか、何とだらしの無いような人じゃろうかと言うような人でもです、神様へ一たび向こうて来てお願いすれば、やはりおかげは受けられる事がわかる。それは天地の親神様だからと言う訳なのである。問題はそこに、おかげを受けると言うことに一つの焦点を絞らして頂くならですね、今日は私御神前で頂いたことは、まあ死んどるのか生きとるのか分からんごたるような風にしとるとば、こうやって背負ってですね。
腕をこう持って、それをおんぶしとる訳ですけど、もう死んどるか生きとるか分からん位しとるものですから、もう負われん訳ですよね。おんぶしにくい、それを無理して腕を握ってこうすり上げ乍らですね、負うて行きよるところを頂いたんです。これは例え信心をしておって願っておる、縋っておると言ってもです、その願う力と言うか縋る力と言うか、その願う力が生々としていなかったり、お任せしとりますと言うたっちゃ、もう親先生にお任せしとります。
まるっきり負んぶされとるごと、成る程おんぶされとるばってん心が死んどる、心が生々としたものがない、心が不安でもうとにかくしがみ付いとるとじゃない、いわゆる生きたものを亡くしておる、こげん負い憎いものはないですよね。私も一ぺん戦争中に、私どもあの時はもう全滅になるかと言ったようなことが、もう終戦後でしたけどねありましたが、夜中にもう夜の夜中でしたが、もうあんまりボンボン撃ってくるので、こちらも撃てというので擲弾筒を撃ったのです。
ところが擲弾筒の弾丸を反対に入れたもんですから炸裂しましてね、私はもうあのとき思うたけども、本当に神様のおかげ頂いとらなかったら、私がやられとったと思うてですね、私は擲弾筒を持っておる弾薬手じゃった。何にもこっちは訳は分からんとです、こっちはもう持っとるだけ、ところがやはり技術を要すると言うかできんから、あの古兵の人がですね、お前じゃできんから俺にやれというて受けとって、そして撃つのを、準尉の方でした若い、それから擲弾筒手の方は。
もう二年か三年になる若い兵隊さんでしたが、その人が撃つことになったんです。ところがその弾丸を逆さにいれたんです、そしてこうやって引いたもんですから手元で炸裂した。それで、あなたほんなもう撃った人はもう即死でした。その晩は真っ暗ですからわかりません。その時ですね、私はその人の名前だけは忘れませんが、大星という上等兵が居ったら、大坪後へひざっとらにゃと言うてから、私のバンドを後から掴ってから、引っ張ったのと炸裂したのが一緒でした。
それはもう本当に驚きましたね。それがもう北京から行っとるロートル組です、年寄り組です、年寄りの兵隊の中に若い兵隊が何人か入っとるというような事でございましたが、若い方の兵隊さんは即死でしたから分からなかったけど、その準尉の人がね後におった人がやられとる、それはもう真っ闇ですからわからんとですよ。それでもう「やられたー」と言いよる、それでもう自分でも、もう難しいと思うたから、もう殺してくれ殺してくれと、そうにゃ言いましたですね。
ところがその大形人の北京のロートル組の兵隊ばっかりじゃもんですから、びっくりして逃げちらかして居らんとですよ、それば私を掴まえておる大星という、これはもうほんなもの三年もおる若い兵隊さんです、私に逃げちゃならんぞ、逃げちゃならんぞと、私の後ろを握っとるとですもんこうやって、もう逃げるにも逃げられんとです、そしてからその準尉の人を連れて行かにゃならん、おんぶして行かにゃならん、で鉄道線まで出なけりゃならん、それが隣におったっちゃ分らんごと真っ暗闇でしたがね。
もう一人でおんぶして行きますけど、こう外套を着ておったですけどね、こうやって見たけど片一方の腕がないですもん。片一方の腕をこうやって、そしてその縋る力もないけん、腕を握ってからこうやって、一生懸命の時には力がでるものですね、けれども、えずうして足はがたがた、がたがた震うちから、それから、その私と大星という上等兵と二人でその線路迄出て参りましてからね、あっちこっち呼びましたからやっぱり皆集まって来ましたけど、あの時ばっかりは全滅と思いましたね。
これは余談になりましたけど、そんとき私の心の中にですね、足はもうがたがた震えよるとですよ、それでもですね私だけは助かるなあ私だけは助かるなあと言う様なものがね、心から底から突き上げて感じましたですね。おかげで外の者は全部無事でして、明くる日そこの現場に参りましたら、もう若い兵隊さんは体がばらばらになって死んでいました。それからその後で負んぶして行った、もう自分たちの宿泊しとる所の(守備をしとるところ)の次の駅までに行くまでに、その方へ敵が撃ってくる。
八路軍ですたいね、撃ってくる方へ向かって進んで行かにゃん、その時の合い言葉が山川じやった、もうその時ばっかりは向こうから来よりますもんね。それが敵じゃ判らんとですよ、それで「山」と、向こうが「川」と言うた時もう本当に嬉しかったことね。今も忘れられませんが、もしもあまり不意な時に擲弾筒が炸裂したり、あまり撃ち合いますもんですから、びっくりしてから守備隊の方から向かいに来よるとでした。
それで途中迄で渡しましたが、それはもうさあ殺せ、もう殺せという人と背中で言う人を、ああもう良い加減なもんですよね、傷は浅いですよ、しっかりして下さいと、何が浅かか何か分からんとですよ、真っ暗な中ですから、それを負うて行く時のそれが負いにくか事ですね、それはすわられん、まあそういう感じなんですよ、まあおかげを頂きまして、その方はすぐ病院に行って助かったかどうかも知りませんけども、若い兵隊は即死でした。その晩に亡くなられましたね。
そういうところを、私共はやはり通らして頂き…それが終戦後ですからね。それは大変なことでした。ま、その時の実感ですけれども、確かに手負いを受けておる、傷だらけというか、もう縋る力がないと言うか、縋っとると言うたっちゃ、ぶら下がっとると言うような信心では、それは取次がせて頂くものはそれは大変な骨折りと言うものです。本当におんぶするなら、おんぶ仕切らにゃ、しっかりおんぶされにゃ、そしたらですね、重かったっちゃおんぶしょいです。
親先生に任せると言うた所でです、手は離しとるして傷だらけと言うごとあるとはもう仲々負い憎いです。今日の御理解のなかに、そこん所を頂いたと言う事はです、例えばそれは悪人であろうがです、根性が悪かろうがです、縋るという生々とした心があれば、だから助かると言う事です。助かるというかね、おかげを受けると言う事です。それかというてなら善人のような人、善人であり又仏様の様な、神様の様な人であっても、もう親先生に任せとると言いながら、任せていない状態の人は負いにくいです。
して自分はいくら任せとるごとあったっちゃ、やっとかっとぶら下っとると言う感じでついて来られたんでは非常に骨が折れるです。本当に任せるなら命までと、それこそままよと言う心になって任せて来るならね、どう言う事でもおかげ頂きます。これは人が善いとか悪いとかとは別ものです。おかげを受けると言うことは、それは例えば昨日頂きましたようにです、それはルーズな人であってもです、信心しておってそげんあんたのごとルーズにあってと言うてもです。
矢張り縋る力が生々としとれば、おかげを受けると言う事。問題はここで求められる事は生々とした心と言うことだと思うのです。それは仏様のような人でも、神様の様な人でも、悪人であっても根性が悪かっても、信心しておかげを受けると言うものは別ものなのです。それはそうでしょうね、お願いしておかげを頂いとりますもん自分自身。ほんに自分のような者をと思いましょうが。
それでも矢張りおかげを頂いておる、自分のように意地が悪い、自分のように根性が悪い、自分のようにだらしがない、それでも一心に縋ればおかげを受けるでしょう。それは親神様だからなんです。そこで私どもが、ここで分からせて頂かなければならない事はです、本当に悪人の自覚が出来、本当に屑の子の自覚が出来、そこからです、改まって行こうとする生き方、いわゆる善人を目指し、神、仏様の様な人をめざす、それこそ例にして相済みませんけど。
乙犬先生の場合なんかは、吉木先生が言われるのには、もうこんな根性の悪い、こんな意地の悪い顔があるだろうかと言うような方じゃった。また事実人相に表れている通りであった。ところが一度おかげを頂いて、生まれつきの子供の目が開いたと、永年の親子として物を言わなかった人が、お母さん私が永年悪かったとお詫びをした時にです、お母さんも、あんたばかりが悪かったとじゃなかった、私も悪かった。と親子が詫びあうような改まり、そこに普通では奇跡としか思えないような。
盲目が目が開くようなおかげを頂いて感動した、その感動が改まりにまでなって行った。いわゆる生神金光大神を目指した、わが心が神に向うていくのが信心じゃと悟らして頂いた。そこからお徳を受けて、それこそ北海道あたりの信心のしの字もない様なとこの町に、まあようやく、この頃市になったんだそうです、小さいですから行かれた時分は、未だ小さい町だったでしょう、の中で人がどんどん助かるような、おかげ御比れいを受けられた、徳を受けられた。
だから一度そこからです、例えば正直者神様の様な人、仏様の様な人がです、本気で改まった、ルーズな人が本気で自分がルーズな事を悟って、そこん所を修行と思うて、正直に又はまともに正確に、いわゆる実意丁寧にその人がならせて頂いたら、その人はもうおかげの世界ではない、徳の世界に入る事が出来ると私は思う。どんなに悪人であっても、悪人の自覚に立って善人を目指す、我が心が神に向こうて行くのを信心と言うのじゃと仰せられるのですから、いわゆるそういう信心が金光様の御信心なのです。
ですから、あれだけ信心してもおかげを受けまいと言う人達が、おかげを受けた事実がある。だから成る程信心しなさるけん、変わんなるものじゃあるなあ、あの人があげん変わらっしゃつたと言われるような、思われるような改まりをして行かねばならない。そこからです、もうここはおかげの世界ではない、徳の世界に入ることが出来ると思う。信心しておかげを受けると言う事は、善人とか悪人とかと言うのではない、信心しておかげを受けると言うのは又別ものである。
と言う事を私どもは、皆さんのおかげを頂いて行かれる事の中から感じる事が出来るのである。けれども、そういう中から私どもがいよいよ神仏を目指すと言う様な、大きな改まりの心をです、改心して一大改心ですよね、改心して行くおかげを頂かして貰う。同時にここで申しますようにその、悪人を悪い奴じゃ、悪い奴じゃと言われる人がですね、ただ参ったと言うことじゃ矢張りおかげにゃならぬ。
矢張りそういう人でも信心して、おかげを受けるということは、もうどうでも助けて貰わねばならんと、生々と神様に向こうて来れば助かると言うことなんです。それが生きた心、例えば有り難いなあと思うて涙が流れる心もね、これは生きた心です。もう腹が立って腹が立って涙が流れると言うても、そういう心は生々した心です。腹が立つ涙が出るほど腹が立つと言うのは生々した心です。
だから生々した心はね、その善にも悪にもやはりある訳です。それを神様へ生々した心を以てお願いをする、お縋りをすれば、おかげが受けられると言うこと。そこで最近ここで言われる、おかげの世界から、徳の世界へと言うのが、もう何時も申しとりますのですが、その上私どもが本気で改まると言うことが出来て参りましたら、正直者であり、神様、仏様のような人、そのうえ生々として神様に縋るなら、これはおかげの世界じゃない、徳の世界に入って行かれると思うですね。
どうぞ。